メジャーリーグ物語 海を渡った野球人

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0529

風青し、稀代のスポーツジャーナリスト故・山際淳司さん  

 




時を越えてあの時の興奮を伝えてくれる読み物がある。

「江夏の21球」というルポが好きだった。今でもお気に入りの作品だ。

1980年、スポーツグラフィック・マガジン『NUMBER』の創刊号に掲載された山際淳司さんの才能が際立った作品だ。


後に《スローカーブを、もう一球》という、珠玉の8篇を集めた本が出され、日本ノンフィクション賞を受賞している。





取材対象は、1979年11月4日
日本シリーズ第7戦、シーズンの掉尾を飾る最終戦だ。


あの日、私は、大阪球場ライト側の外野席にいた。

だから、このルポを目にした時は、何も考えず、その雑誌を手にしていた。

その場所にいたから。その戦いをどんな風に描くのか。それに興味があった。

子供の頃から熱狂的な近鉄バッファローズのファンだった。

巨人でも阪神でもない。近鉄と広島というマイナーチーム同士の対戦!

ファンからすれば、その球史に残る激闘のドラマを《僅か21球》という視点で捉えた切り口に、衝撃を覚えたものだ。

山際さんのルポは、対象物との確かな距離感。入り込まず、でも、曖昧でもなく。スポーツの読み物にありがちな「汗と涙」の根性モノではない。

サラッとした感覚の、皮膚に付けてベタつかず、それでいて使用後に潤いをもたらしてくれる。

そんな感じの当時としては、洗練されたCOOLで、都会的だった印象がある。

私にとっては、ノンフィクションというジャンルをさらに楽しくさせてくれた作品だった。

私が感じている限り、瞬く間にジャーナリストとしての脚光を浴び、執筆活動と共にNHKのスポーツ番組のキャスターなど活字からテレビにも活躍の場を広げた。90年代半ば頃まで、スポーツメディアの中心にいた。

売れっ子になって、忙しかったのだろう、印刷所の校正室で書いて、それをそのまま活字にするような、そんな多忙な日々が、あったのかもしれない。

凡庸な私では、計り知れないストレスもあったのだろう。

1995年5月29日、山際淳司さんは46歳の若さで急逝した。

ご冥福をお祈りいたします。



※以前にも紹介した記事をリライトしました。


■山際淳司さんの作品


(たくさんの中のほんの一部です)

ノンフィクション
  1. スローカーブを、もう一球(1981年)
  2. たった一人のオリンピック(1981年)
  3. ナックル・ボールを風に:スポーツをめぐる14の物語(1983年) 
  4. エンドレス・サマー(1985年)
  5. ルーキー:もう一つの清原和博物語(1987年)
  6. バットマンに栄冠を(1988年)
  7. スタジアムで会おう(1992年)
  8. 彼らの夏、ぼくらの声(1994年)
  9. 風たちの伝説(1995年)

【フィクション・小説】
  1. 夏の終りにオフサイド(1985年) 
  2. 北北東の風、マイナス三度(1986年)
  3. 海へ、ボブスレー(1987年)
  4. リヴァプール・キャッツの冒険(1989年)
  5. ゴルファーは眠れない(1992年)
  6. ダブルボギークラブへようこそ(1994年)



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Posted on 2017/05/29 Mon. 16:34 [edit]

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真田幸村の激闘 「歴史秘話ヒストリア」〜最新研究から探る 大坂の陣〜  



episode1
難攻不落!謎の巨大要塞 出現


慶長19(1614)年10月、大阪城は風雲急を告げていた。
豊臣秀吉の死後、城の主となっていたのは息子の豊臣秀頼とその母・淀殿。
かつての威光は失われたものの豊臣家は依然として最大の大名の一つだった。

江戸幕府が開かれて11年目のこの年、ついに徳川家康が豊臣家をつぶすべく動き始めた。

豊臣家は、これを迎え撃つため、浪人や武将らに大阪へ参集するよう呼びかけた。
真田幸村を含め大阪に集まった豊臣方は10万、攻め寄せる徳川方はその倍の20万。

しかし、大阪城には亡き秀吉が残した鉄壁の防衛ライン「惣構堀」と呼ばれる備えがあった。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●

大坂城の鉄壁の防衛ライン「惣構堀」の名残が見つかり、その一部が今も大阪に残っている。

大阪歴史博物館の積山洋さんは、発掘調査を通して正確な位置を推定してきた。

これらは空堀で城の南側に2kmに渡って建設されていた。さらに大阪城の三方をめぐる自然の河川や水堀とともに防衛ラインを構成し、一つの町を丸ごと囲むようにめぐらされ、敵の侵入を阻止していた。

奈良大学の千田嘉博教授によれば「惣構堀」の規模は世界的にも例を見ないという。

近年、さらなる大阪城の関門となる堀が、大阪府警本部庁舎の改築に伴って発掘された。


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●

このように秀吉が残した大阪城は鉄壁の防衛ラインであったが、城の南東部だけが天然の谷を防御に利用していて唯一の弱点と思われていた。

その弱点を真田幸村が大工事により克服。
幸村は城の南東部にあった台地を利用して巨大な戦闘基地を築いた。

難攻不落の「真田丸」出現

大阪冬の陣で真田幸村が建造した「真田丸」を再現。標高と絵図から推測できる真田丸は周囲1200メートルと桁外れの規模の要塞だったと考えられる。

ヒストリア


大軍を最前線で迎え撃つための防御拠点に相応しい造りであり、攻撃の拠点でもあった。奈良大学の千田嘉博教授は「徳川軍から守るだけでなく引きつけ反撃する施設だった」と話した。


episode 2
大坂城を攻略せよ “真田の抜け穴”の秘密 

大阪城の南側には真田の抜け穴と言われる不思議な穴が数多く残されている。大阪・天王寺区の産湯稲荷神社や一心寺にある井戸は、真田幸村が大阪城からの逃げ道として掘ったと伝えられていてる。

幸村の銅像がある三光神社にも幸村が秀頼を脱出させたという抜け穴が存在する。しかしこれは最新の研究によると
徳川側が掘ったものだと考えられている。

慶長19年11月18日、大阪冬の陣が開戦。徳川方は大阪城を包囲。

攻撃を城の南東部に集中させるも、そこには巨大要塞
「真田丸」が待ち受けており、記録によればこの日だけで1万人以上の戦死者が出たという。幸村の思惑通り「真田丸」は大きな成果をあげた。

ヒストリア2



堺鉄砲研究会の澤田平さんは「真田丸」の勝利には特殊な武器の存在があったと考えている。

それは大阪・茨木市の指定文化財となっている大型銃「大狭間筒」で、城を守る専守防衛の役目があると話した。


豊臣方の守りの硬さを見て家康は力攻め以外の作戦に切り替えた。

大阪城を攻めあぐねてる徳川方の苦闘の様子が「大阪冬の陣図屏風」に描かれている。竹束を全面に置きその背後に築山を築きその後ろを「仕寄り道」と名付けられた半地下通路が「真田丸」や「惣構堀」に近づく塹壕となった。

市内各地に残る真田の抜け穴、「これらは攻めあぐねる中で徳川方がひねり出した作戦の遺跡」と奈良大学の千田嘉博教授が話した。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●

堅固な真田丸と惣構掘の備えにより大阪の陣は予想外の長期戦にもつれ込む。
真冬の大阪で徳川方20万人が野営せざるを得なくなった。

大阪城からは徳川方の窮乏を物語る大量の牛や馬の骨が見つかっている。

大阪府文化財センターの江浦洋さんは「運搬用の牛や馬の骨で食料に困っていた状況がよくわかる」と話した。


ところが、慶長19年12月16日、徳川方の大砲が淀殿のいた館に命中。
これに動揺した淀殿は武将たちの反対も顧みず和睦に応じてしまう。

12月20日、大阪冬の陣は終結。家康は大阪城の堀を埋めることを和睦の条件とし、本丸を除くすべての堀が1ヶ月で埋められた。

このときに「真田丸」も破壊された。



episode 3
発見!幸村の秘密兵器 謎の小型銃

慶長20年5月6日、大阪夏の陣が開戦。豊臣方は堀がないため籠城できず野戦を強いられた。「大狭間筒」などの武器は野戦では役に立たず。5月7日、真田幸村は高台を利用し徳川方を迎え撃つ作戦で茶臼山に布陣。

幸村が秘密兵器「馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)」を用意していたことが「南紀徳川史」という資料に記されている。「宿舎銃」は普通の火縄銃の1/3の時間で発射できる“早込めの銃”だったという。


5月7日、徳川方が攻撃開始。幸村は敵をぎりぎりまで陣地に引きつけ一斉に射撃して迎え撃つ作戦だったが、焦った豊臣方の一部の部隊が攻撃を開始し、乱戦となり射撃のチャンスは奪われた。

しかし、幸村は諦めず「宿舎銃」を手に本陣目指して突撃をかけたという。

このときの幸村の行動は「家康のいる場所目がけて真一文字に突き進んだ」と記されている。

幸村の攻撃にさらされた家康は2度まで切腹を覚悟したという。

そして、幸村が2発目を撃とうとした時、「真田が宿舎筒を手から取り落としたとのことである」とも記されている。


真田幸村は、傷つき、疲れ果て、大阪・天王寺区の安居神社にある松の木にもたれかかっていたところを、徳川方の兵が囲んだ。

慶長20年5月7日、「我が首を取って手柄にされよ」という言葉を残し、真田幸村討ち死(享年49)。その日大阪城は落城し大阪夏の陣は終結した。

真田幸村の「宿舎銃」が他家に伝わることを恐れた徳川家は、封印し明治を迎えるまで表に出すことはなかった。


圧倒的な徳川方を相手に知力を振り絞って奮闘した真田幸村。

その伝説は大阪で今も語り継がれている。

大阪・天王寺区の安居神社では毎年幸村の慰霊祭が行われる。平野区の志紀長吉神社には勝利を祈って奉納した真田の軍旗が御神宝として残されている。幸村ゆかりのこの神社では今、「勝守り」が人気を博している。








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Posted on 2016/12/29 Thu. 20:00 [edit]

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がんばれサッカー木村和司!レジェンドを襲った病魔  


 



26日放送、テレビ東京「SPORTSウォッチャー」を見た。

 

番組では、「レジェンドを襲った病魔 奇跡の復活を支える”家族愛”」と題し、かつてサッカー日本代表で背番号10番を背負った木村和司氏(58歳)の現在を伝えた。

 

そうか、だから代表戦の解説も口数が少なかったのか?

 

昨年1月に脳梗塞で倒れた。一命こそ取り留めたものの右半身は麻痺し、今も家族とともに懸命なリハビリに励んでいるという。

 

妻・祐子さんは「もう全く動かない。手とか足が勝手に落ちてると分からない。落ちてても気づかないで引きずっていたり。本人は全く感覚がないので曲がって寝させているかもしれないし、実は捻挫してたり。そんなのが何回もありました」と振り返る。

 

現在は歩いたり、箸を使えるほどにまで回復している木村氏だが、祐子さんは「どうしてもボールを蹴ってもらいたい」と、長女も「やっぱり蹴ってる姿が一番いい」と家族が想いを語る。



  1985年、W杯アジア最終予選の韓国戦では、30mのフリーキックを決めるなど数々の伝説を残した。

あの時は本当に気持ちよかった。最大のライバルで強敵相手に電光石火の一撃だった。弱いサッカー日本代表で木村のフリーキックは数少ないリーサル・ウェポンだった。 

 

ピッチで木村の姿を見たい!頑張る姿を見せて欲しい。

 

※まったくメジャーリーグ と関係ない話題ですが、病魔と闘う木村和司さんにエールを送ります。



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Posted on 2016/11/27 Sun. 13:27 [edit]

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真田幸村の激闘 「歴史秘話ヒストリア」〜最新研究から探る 大坂の陣〜  



episode1
難攻不落!謎の巨大要塞 出現


慶長19(1614)年10月、大阪城は風雲急を告げていた。
豊臣秀吉の死後、城の主となっていたのは息子の豊臣秀頼とその母・淀殿。
かつての威光は失われたものの豊臣家は依然として最大の大名の一つだった。

江戸幕府が開かれて11年目のこの年、ついに徳川家康が豊臣家をつぶすべく動き始めた。

豊臣家は、これを迎え撃つため、浪人や武将らに大阪へ参集するよう呼びかけた。
真田幸村を含め大阪に集まった豊臣方は10万、攻め寄せる徳川方はその倍の20万。

しかし、大阪城には亡き秀吉が残した鉄壁の防衛ライン「惣構堀」と呼ばれる備えがあった。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●

大坂城の鉄壁の防衛ライン「惣構堀」の名残が見つかり、その一部が今も大阪に残っている。

大阪歴史博物館の積山洋さんは、発掘調査を通して正確な位置を推定してきました。

これらは空堀で城の南側に2kmに渡って建設されていた。さらに大阪城の三方をめぐる自然の河川や水堀とともに防衛ラインを構成し、一つの町を丸ごと囲むようにめぐらされ、敵の侵入を阻止していた。

奈良大学の千田嘉博教授によれば「惣構堀」の規模は世界的にも例を見ないという。近年、さらなる大阪城の関門となる堀が、大阪府警本部庁舎の改築に伴って発掘された。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●

このように秀吉が残した大阪城は鉄壁の防衛ラインであったが、城の南東部だけが天然の谷を防御に利用していて唯一の弱点と思われていた。

その弱点を真田幸村が大工事により克服。
幸村は城の南東部にあった台地を利用して巨大な戦闘機地を築いた。

難攻不落の「真田丸」出現

大阪冬の陣で真田幸村が建造した「真田丸」を再現。標高と絵図から推測できる真田丸は周囲1200メートルと桁外れの規模の要塞だったと考えられる。

ヒストリア


大軍を最前線で迎え撃つための防御拠点に相応しい造りであり、攻撃の拠点でもあった。奈良大学の千田嘉博教授は「徳川軍から守るだけでなく引きつけ反撃する施設だった」と話した。


episode 2
大坂城を攻略せよ “真田の抜け穴”の秘密 

大阪城の南側には真田の抜け穴と言われる不思議な穴が数多く残されている。大阪・天王寺区の産湯稲荷神社や一心寺にある井戸は、真田幸村が大阪城からの逃げ道として掘ったと伝えられていてる。

幸村の銅像がある三光神社にも幸村が秀頼を脱出させたという抜け穴が存在する。しかしこれは最新の研究によると
徳川側が掘ったものだと考えられている。

慶長19年11月18日、大阪冬の陣が開戦。徳川方は大阪城を包囲。

攻撃を城の南東部に集中させるも、そこには巨大要塞
「真田丸」が待ち受けており、記録によればこの日だけで1万人以上の戦死者が出たという。幸村の思惑通り「真田丸」は大きな成果をあげた。

ヒストリア2



堺鉄砲研究会の澤田平さんは「真田丸」の勝利には特殊な武器の存在があったと考えている。

それは大阪・茨木市の指定文化財となっている大型銃「大狭間筒」で、城を守る専守防衛の役目があると話した。


豊臣方の守りの硬さを見て家康は力攻め以外の作戦に切り替えた。

大阪城を攻めあぐねてる徳川方の苦闘の様子が「大阪冬の陣図屏風」に描かれている。竹束を全面に置きその背後に築山を築きその後ろを「仕寄り道」と名付けられた半地下通路が「真田丸」や「惣構堀」に近づく塹壕となった。

市内各地に残る真田の抜け穴、「これらは攻めあぐねる中で徳川方がひねり出した作戦の遺跡」と奈良大学の千田嘉博教授が話した。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●

堅固な真田丸と惣構掘の備えにより大阪の陣は予想外の長期戦にもつれ込む。
真冬の大阪で徳川方20万人が野営せざるを得なくなった。

大阪城からは徳川方の窮乏を物語る大量の牛や馬の骨が見つかっている。

大阪府文化財センターの江浦洋さんは「運搬用の牛や馬の骨で食料に困っていた状況がよくわかる」と話した。


ところが、慶長19年12月16日、徳川方の大砲が淀殿のいた館に命中。
これに動揺した淀殿は武将たちの反対も顧みず和睦に応じてしまう。

12月20日、大阪冬の陣は終結。家康は大阪城の堀を埋めることを和睦の条件とし、本丸を除くすべての堀が1ヶ月で埋められた。

このときに「真田丸」も破壊された。



episode 3
発見!幸村の秘密兵器 謎の小型銃

慶長20年5月6日、大阪夏の陣が開戦。豊臣方は堀がないため籠城できず野戦を強いられた。「大狭間筒」などの武器は野戦では役に立たず。5月7日、真田幸村は高台を利用し徳川方を迎え撃つ作戦で茶臼山に布陣。

幸村が秘密兵器「馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)」を用意していたことが「南紀徳川史」という資料に記されている。「宿舎銃」は普通の火縄銃の1/3の時間で発射できる“早込めの銃”だったという。


5月7日、徳川方が攻撃開始。幸村は敵をぎりぎりまで陣地に引きつけ一斉に射撃して迎え撃つ作戦だったが、焦った豊臣方の一部の部隊が攻撃を開始し、乱戦となり射撃のチャンスは奪われた。

しかし、幸村は諦めず「宿舎銃」を手に本陣目指して突撃をかけたという。

このときの幸村の行動は「家康のいる場所目がけて真一文字に突き進んだ」と記されている。

幸村の攻撃にさらされた家康は2度まで切腹を覚悟したという。

そして、幸村が2発目を撃とうとした時、「真田が宿舎筒を手から取り落としたとのことである」とも記されている。


真田幸村は、傷つき、疲れ果て、大阪・天王寺区の安居神社にある松の木にもたれかかっていたところを、徳川方の兵が囲んだ。

慶長20年5月7日、「我が首を取って手柄にされよ」という言葉を残し、真田幸村討ち死に(享年49)。その日大阪城は落城し大阪夏の陣は終結した。

真田幸村の「宿舎銃」が他家に伝わることを恐れた徳川家は、封印し明治を迎えるまで表に出すことはなかった。


圧倒的な徳川方を相手に知力を振り絞って奮闘した真田幸村。

その伝説は大阪で今も語り継がれている。

大阪・天王寺区の安居神社では毎年幸村の慰霊祭が行われる。平野区の志紀長吉神社には勝利を祈って奉納した真田の軍旗が御神宝として残されている。幸村ゆかりのこの神社では今、「勝守り」が人気を博している。




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Posted on 2016/04/24 Sun. 10:00 [edit]

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風青し、稀代のスポーツジャーナリスト山際淳司さん  





時を越えてあの時の興奮を伝えてくれる読み物がある。

「江夏の21球」というルポが好きだった。
今でもお気に入りの作品だ。

1980年、スポーツグラフィック・マガジン
『NUMBER』の創刊号に掲載された山際淳司さんの
才能が際立った作品だ。


後に《スローカーブを、もう一球》という、
珠玉の8篇を集めた本が出され、
日本ノンフィクション賞を受賞している。




取材対象は、1979年11月4日
日本シリーズ第7戦、
シーズンの掉尾を飾る最終戦だ。


あの日、私は、大阪球場ライト側の外野席にいた。

だから、このルポを目にした時は、何も考えず、
その雑誌を手にしていた。

その場所にいたから。その戦いをどんな風に描くのか。
それに興味があった。

子供の頃から熱狂的な近鉄バッファローズのファンだった。

巨人でも阪神でもない。
近鉄と広島というマイナーチーム同士の対戦!

ファンからすれば、その球史に残る激闘のドラマを
《僅か21球》という視点で捉えた切り口に、衝撃を覚えたものだ。

山際さんのルポは、対象物との確かな距離感。
入り込まず、でも、曖昧でもなく。
スポーツの読み物にありがちな「汗と涙」の根性モノではない。

サラッとした感覚の、皮膚に付けてベタつかず、
それでいて使用後に潤いをもたらしてくれる。

そんな感じの当時としては、洗練されたCOOLで、
都会的だった印象がある。

私にとっては、ノンフィクションというジャンルを
さらに楽しくさせてくれた作品だった。

私が感じている限り、
瞬く間にジャーナリストとしての脚光を浴び、
執筆活動と共にNHKのスポーツ番組のキャスターなど
活字からテレビにも活躍の場を広げた。
90年代半ば頃まで、スポーツメディアの中心にいた。

売れっ子になって、忙しかったのだろう、
印刷所の校正室で書いて、それをそのまま活字にするような、
そんな多忙な日々が、あったのかもしれない。
凡庸な私では、計り知れないストレスもあったのだろう。

1995年5月29日、山際淳司さんは46歳の若さで急逝した。
ご冥福をお祈りいたします。



※以前にも紹介した記事をリライトしました。


山際淳司さんの作品

(たくさんの中のほんの一部です)

ノンフィクション
  1. スローカーブを、もう一球(1981年)
  2. たった一人のオリンピック(1981年)
  3. ナックル・ボールを風に:スポーツをめぐる14の物語(1983年) 
  4. エンドレス・サマー(1985年)
  5. ルーキー:もう一つの清原和博物語(1987年)
  6. バットマンに栄冠を(1988年)
  7. スタジアムで会おう(1992年)
  8. 彼らの夏、ぼくらの声(1994年)
  9. 風たちの伝説(1995年)

【フィクション・小説】
  1. 夏の終りにオフサイド(1985年) 
  2. 北北東の風、マイナス三度(1986年)
  3. 海へ、ボブスレー(1987年)
  4. リヴァプール・キャッツの冒険(1989年)
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Posted on 2015/05/29 Fri. 05:00 [edit]

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入来祐作、戦力外から波乱の野球人生。 元巨人のエースから用具係りへ、そして・・・  


バースデイ


野球にこだわり続けてきた男の葛藤と生きざま

TBS『バース・デイ』は、お気に入りのドキュメンタリーですが、今回はこの男が再登場。 元巨人のエース・入来祐作の「今」に番組が迫りました。


彼は戦力外通告をうけ、2軍の用具係りとして野球にしがみ続けた…。

闘志あふれるピッチングで野球ファンの記憶に残るピッチャー入来祐作。彼は2008年に戦力外通告をうけ、2軍の裏方として生きていた。プライドを捨て、ひたむきに生きる入来の姿は、トミー・リー・ジョーンズが出演する缶コーヒーのCMでも話題を呼んだ。

そんな入来に思いも寄らない転機が。こみあげる涙…。42歳の新たな人生とは?

1996年にドラフト1位で巨人に入団。野球のエリート街道を歩み、当時の長嶋茂雄監督も彼を評価していた。

打者に向かっていく闘志あふれるスタイルが持ち味だった。兄の入来智もプロ野球選手として活躍。2001年のオールスターでは、兄弟リレーが実現している。

この年、入来は、チーム最多の13勝をあげ、セ・リーグ最高勝率をマーク。プロ5年目で、巨人のエースと呼ばれ誰もが知るスター選手の仲間入りを果たした。


メジャーで挫折した野球人生

そして10年目を迎えた2006年、メジャーリーグに挑戦。年俸8600万円(推定)でニューヨーク・メッツと契約し、野球選手として更なる高みにチャレンジした。

しかし、入来の野球人生はここから狂い始める。
オープン戦でチャンスをもらったものの、フォアボールを連発し、マイナーに降格。そして、1度もメジャーに昇格できないまま、シーズンが終了。そのまま自由契約となった。

その後、35歳で日本に戻り、横浜に入団。しかし、かつてファンを痺れさせていた力強い投球はできなかった。

そして2008年、36歳になった入来は、戦力外を通告された。

野球一筋の人生だった。違う職業に就くなど、想像もできなかったという。入来には、野球にしがみつくしかなかった。

「球団で働かせて欲しい」入来は必至に頼み込み、バッティングピッチャーになった。打者の調整のため、ひたすら投げる。年収は20分の1。それでも、ユニフォームが着れることが嬉しかった。

ところが、喜びもつかの間、思わぬ壁が立ちはだかる。

バッティングピッチャーは、バッターに打たせるために投げなければならない。しかし、打たせようと力を抜いて投げると球をコントロールすることが出来なかった。(適正というものがあるのですね、バッティングピッチャーは立派な専門職なのですね。)

そして、バッティングピッチャー、失格。球団は入来に二軍の用具係を命じた。


野球エリートから裏方…

用具係の仕事は、選手が使う道具の管理。そのひとつが、練習で使ったボールを消しゴムと一緒に機械に入れ、汚れを落とす。その数、約1500個。3時間かけて綺麗にし、次の練習に備える。(へぇ~、そんな事までしているんだ)

試合の時は、開始5時間前に球場入りし、選手の荷物を運び込む。(一般人なら出来そうだけど、過去の栄光がある人にはつらいだろうなぁ。)

試合中も仕事はいっぱいある。ゲーム展開を記録してまとめる。終了後には、後片付けが待っている。こうした裏方作業をするのは、野球人生で初だった。

しかし、この仕事をしたからこそ、プロ野球選手は、多くの人に支えられているという事を実感した。入来は4年間、用具係として働いた。


就任会見で涙する男の姿が、そこにはあった!

そんな入来に突然転機が訪れたのは、2014年12月。なんと、福岡ソフトバンクホークスのコーチへのオファーが来たのだ。

それは、新監督・工藤公康、直々のオファーだった。工藤が解説者時代にキャンプを取材中、黙々と裏方をしている入来が目に留まったという。

「野球への情熱を選手に伝えて欲しい」それが工藤監督が入来に託した思いだった。(工藤いいね、胸アツですよ)

コーチの就任会見では、涙する入来の姿があった。

福岡市にある雁ノ巣球場で入来は現在、3軍の投手コーチを務めている。投手コーチ2名で11名の投手を指導している。

3軍とは、主にまだプロのレベルに満たない選手を育成する機関。その一方で、常に結果が求められるプロの世界では、戦力外通告の恐れがある選手が集まる場所とも言える。

不安の中で、明日を夢見る彼らの指導者として、入来は6年ぶりにユニフォームを着た。自らの経験を元に、彼らが一人前のプロ野球選手になれるかが、これからの入来の使命。

コーチという立場だが、練習中、入来は率先して練習の準備作業を行う。そして選手たちにも促す。それは、選手たちに野球への感謝と情熱を持って欲しいというメッセージだ。

コーチに就任して4か月。入来の第2の人生は、始まったばかりだ。

プロ野球の頂点から裏方の用具係へ。波乱の人生は、新たな局面を迎えた。コーチとして、どんな手腕を見せるのか、これからも見守りたい。七転び八起きの入来の人生。

彼が寄り添った選手たちが、カクテル光線の下で大活躍する日が来ることを期待したい。



【プロフィール】

入来祐作(42)
福岡ソフトバンクホークス三軍投手コーチ
生年月日:1972/08/13
背番号:99
出身:宮崎県
投打:右投げ右打ち
経歴:
  1. PL学園高-亜細亜大学-本田技研
  2. 読売ジャイアンツ (1997 - 2003)
  3. 北海道日本ハムファイターズ (2004 - 2005)
  4. ニューヨーク・メッツのマイナー(2006)
  5. トロント・ブルージェイズのマイナー(2007)
  6. 横浜ベイスターズ (2008)


❑TBSドキュメンタリー「バース・デイ」

夢を抱き、戦いに挑み、過酷な現実に直面した者たちに訪れる
〝人生に刻まれた 忘れられない大切な一日″
その忘れられない一日を番組では『バース・デイ』と呼び、毎回、番組で取り上げる主人公が新しい自分に生まれ変わる瞬間を紹介していく番組。毎週土曜日 午後5時O.A.


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Posted on 2015/05/09 Sat. 19:21 [edit]

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本田圭佑見参! 『プロフェッショナル仕事の流儀』 W杯直前SP  





本田圭佑スペシャル2014


第1回 密着 “世界一”への道

500日の記録



 サッカー日本代表の本田圭佑選手を特集したNHKのドキュメンタリー番組「プロフェッショナル 仕事の流儀 本田圭佑 W杯直前スペシャル」が2日と9日に放送される。

 毎回、さまざまな分野の第一線で活躍中のプロ達にスポットをあて、彼らの「仕事」をNHKらしい“繊細”なタッチで紹介していく贅沢なドキュメンタリー番組。



W杯に挑むサッカー日本代表のエース・本田圭佑に密着。
2週連続スペシャルの第1弾――


 名門・ACミランに移籍したものの
   待ち受けていたのは茨の道だった。



折れない心 不屈の男ホンダ
陰の戦いを追ったドキュメンタリー

 
約3年間にわたって本田選手に密着し、イタリア1部リーグ(セリエA)のACミランに移籍した舞台裏に迫るほか、独占インタビューで本田選手がW杯への思いやイタリアでの苦闘について語る。




 
本田選手は、番組で
「天才なんかこの世の中にほぼいないと思っています。才能の差は若干なりともあるというのも認めます。ただ、若干でしょう?っていうことを僕は言いたい。ライオンと格闘するわけじゃない。馬と競走するわけじゃない。『あいつは別の生き物だ』とか、『あいつだから』っていう考えは馬やライオンにすればいいんです」

「批判されたくなければ、移籍をしない方がいいわけです。批判されに行っているんです、あえて言うなら」など、

独特の表現でサッカーへの思いを明かす。




この番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」では過去にも、本田選手のロシアでの苦闘けがからの復帰を追ってきた。


今回はイタリア移籍後の舞台裏を中心に取材を行った。


本田が直面した壁とは
どんなものだったのか!

本田本人から唯一密着を認められたカメラだから撮ることができた濃密な取材で描く。73分拡大版。

コンディションを上げるための砂上トレーニングなど、滅多に立ち入ることが許されない練習場でのようすも撮影した。


荒川格ディレクターは、見どころを「思うようにいかないつらい日々の中、それでも折れずに、彼が地道に努力している姿を追ってきました。彼の素の部分が見られるインタビュー内容もふくまれます。

普段、努力しているところを人に見せたがらない本田選手ですが、ぜひ、この番組で彼の陰の闘いを、知ってもらいたいです」と話している。

【出演】本田圭佑 【語り】橋本さとし 



 
◇「プロフェッショナル 仕事の流儀 本田圭佑 W杯直前スペシャル」の
「密着、“世界一”への道 500日の記録」は
6月2日(月)午後10時

◇「独占インタビュー エースの覚悟」は
6月9日(月)午後10時に放送。



関連記事:日本代表本田圭祐 病気と闘う本田を応援したい! 

http://ameblo.jp/osakalove50/entry-11870455171.html



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Posted on 2014/06/02 Mon. 19:00 [edit]

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三億円事件、きょうで45年。新証言を再現ドラマで  





あれから45年《昭和事件史最大のミステリー》
再現ドラマで「立川グループ」新証言


1968年12月10日に発生した『三億円事件』の真相に迫ったフジテレビ系のドキュメンタリードラマ『独占追跡! 三億円事件"最後の告白者たち" ~真犯人の影…45年目の新証言~』が、今月21日に放送される。

覚えている方も多いと思うが、2008年に放送され17.2%の高視聴率を記録した『新証言! 三億円事件 40年目の真相』の第2弾

番組オンエア以降に得られた新証言を交えながら、事件の真相を追う。東京の府中・新宿・立川、マニラ、ハワイの3カ国で取材を重ねる中で、新たな事実が浮かび上がったという。


新聞報道によれば、『三億円事件』は高度成長期の昭和43年(1968年)。今からちょうど45年前の12月10日、午前9時15分。

未明から降りはじめた雨の中、一台の現金輸送車が日本信託銀行国分寺支店から東芝府中工場へ向かおうとしていた。4人の銀行員が運んでいたのは、工場で働く4,523人分の冬のボーナス3億円(現在の貨幣価値に換算すると約20億円)が詰まった3つのジュラルミンケース。

その6分後の9時21分。彼らの前に白バイ警官が現れ、左手を水平にあげて停止を要求される。白昼堂々、ニセ警官に扮した強奪事件に、国内にとどまらず世界中が驚がくした。

 犯人が残した遺留品は153点、捜査員は延べ17万1,805人。捜査費用は被害額の3倍にあたる約9億円が投入されたにもかかわらず、事件は未解決のまま現在に至った。

 事件直後に浮かび上がり、最後まで捜査線上から消えなかったのが、不良少年グループ"立川グループ"の元メンバーたち。

 重要参考人で自殺した少年の家族とも親しかった元メンバーの1人は、今回の取材で誰も知らなかった家族の悲劇を明かし、別のメンバーは事件後にハワイへ移住した仲間について、初めてその詳細を語る。

 さらに立川グループのメンバーから兄貴分と慕われ、彼らのたまり場だったスナックのマスターをマニラで発見。45年間、秘め続けてきた彼の口から語られた証言は、驚がくの内容だった・・・

 『三億円事件』は、事件を題材として扱った連載中の人気劇画「クロコーチ」(TBS系)のドラマ化で、当時生まれてなかった若い読者層もひきつけているが、今回の第2弾では、事件直後に金持ちになった人物の居場所も突き止めるなど、戦後犯罪史上最大のミステリーとも言われる事件の真相に迫っている。



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Posted on 2013/12/10 Tue. 12:00 [edit]

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